とりとめのない平等論

最近、やたらと平等を主張している人を目にする。

「男女平等」「機会均等」といったものに始まり、「育児休暇」の問題や「賃金格差」などの問題も基本的には平等を求めるものだ。米国の入国に関するものなども本質的には「人間を平等に扱うべき」という立場があるからと言えるだろう。

こういう平等意識について、ちょっと違うのではないかと思っている。

宗教的平等と法の平等

人類において、理性より本能が支配する時代は平等なんて無かった。そこには男と女の間に明確な能力差と役割分担があったし、同性の間でもその能力や性質によって立場が決まっていた。リーダーという要素が他動物と比べて強いだけで、基本的には大きく変わらなかった。価値観の基準は「強い」である。

人間の脳が発達するようになると、少しこの様子が変わってくる。人間は定住を始め、農業を始め、単純な「強い」ではなく「生活を良くする」ことが必要となった。この点において、徐々に女性が力を発揮し始めるようになり、女系社会というものも登場するようになる。女系社会というのは、基本的に男性を狩猟世界では登場せず、留守を守る女性たちが生活上の実権を握った状態である。

さらに歴史が進み、人間が集まり国家や町を作るようになると、そこには生活を改善する労働と、生活を外部の脅威から守る防衛という役割が出てくるようになり、「強い」「生活を良くする」両方の資質を持った者が必要となった。それがいわゆる「長」であり「王」であり、その個人を中心にして社会が作られるのだが、それは肉体的なアドバンテージを持つ男が圧倒的に多かった。女はそうした男を支配し利用することで女王になることはあれど、自らの能力に頼って王となる例はほとんど見られない。

そんな時代が長く続いた中、イエス=キリストが神の愛を説き始め、虐げられていた女性にも平等に接することによって、「神の下の平等」という概念が現れる。神にとっては男も女も平等であるという観を人類にもたらし、広げていった。

そして、様々な哲学者や思想家たちの人権思想から、「法の下の平等」が現れ、男女平等などの人権論が現在は主流となった。しかし、これは法を与えているのは神だという自然法に源流を持つ考えであり、根本的には「神の下の平等」を地上に下ろしたものである。

ぶっちゃけて言えば、イエスの時代から今に至るまで、求められる能力の基本は変わっていない。強いて言えば、「強い」のアドバンテージが低下したくらいだ。それで女性の権利はやや高まるが、あくまで「やや」なのである。

つまるところ、平等は人間だけを考えれば歴史上起こったことはなく、神の存在無しには生じたことが無いのである。基本的人権というのは人間なら誰でも持っているべき権利を言うが、権利を規定するのは残念ながら法ではなく、能力もしくは神なのである。法の下の平等は概念であり、実際ではない。

不自然な平等主張

もしも男性より屈強な女性が肉体労働に従事する際に機会を与えられず不利益を被ることになるなら、それは明らかに平等ではない。しかし、人数的に女性が少ないから増やすという平等の与え方は明らかにおかしい。東大の寮の話や、国会議員の数などそうだ。不自然さは免れない。

また、先日某大学の教員が育児休暇を取ったために昇給の機会を逃したとして訴えを起こしたニュースがあった。

労働契約上の表現からすると、どちらにも言い分があると思いはするが、労働者というのは労働して対価と機会をもらうべきで、休んでいた者が言うべきではないと思うのだ。働いた者と働いていない者が同一の対価をもらうと言うのは、聖書にもある話だが、その真意は神の下の平等の話であり、経済的概念ではないからである。労働上の貢献が無いにも関わらず権利を主張することで労働している側を不平等にしてしまっている。

もし、高額の年俸をもらうプロ野球選手が育児休暇で一年休んでいて、契約更新の際に不利な結果を告げられたとして、不平等だと訴えを起こしたり、それに賛同する人がいるだろうか。雇用契約と選手契約は違う性質のものとは言え、この点については同じではないだろうか。

そもそも個人事業主は育休や有給は無いし、働いた分が実入りになる。それが自然だと思うのである。雇用者と被雇用者の平等、労働契約のあり方から見直すべきだと思う。時代に合わないルールがまだまだ多い。

沖縄の基地負担にしても、問題の根元にあるのは「どうして沖縄だけ」という不平等感であろう。

ただ、これは沖縄が持つ地理的位置という能力が規定したことであり、日本国が意図的に仕組んだわけでもない。アメリカの陰謀があるわけでもない。政治的な駆け引きはるにせよ、沖縄でなければ事はスムーズに終わっただろう。それだけの利用価値がある地域なのである。

「沖縄は東南アジアの貿易の中心地」という自負心があるのなら、理論上はそこに基地をおく利便性はわかっているはず。不平等だった過去や、差別的な扱いを受けた過去はあれど、今現在それを引きずっているのは少し違う。

「差別」と「不平等」は違う

思うに、「差別」と「不平等」が混ざってしまっているのが問題だろう。

差別は嫌悪されるべきものであるが、不平等を何もかも差別と表現すると問題が見えなくなる。

「神の元の平等」というのは、端的には「差別をしない」ということである。ユダヤ人もサマリヤ人も、他の異邦人も、皆同じように天国に行くことができるということである。

ただし、義人は天国に行けるし、悪人は地獄に行く。これを「差別」という人はいないだろう。これは神の下の「不平等」である。悪人は放っておけば地獄に行くが、悔い改める機会を与える。これが「平等」である。この「機会」がなければ「差別」である。平等と不平等の間にはいつも「機会」が設けられているものだ。

東大に入るには「機会」があり、寮に入るにも面接などの「機会」がある。その機会が無くなり不利益を受ければ「差別」である。

沖縄の問題も育児休暇の問題も、機会が完全に無いわけではない以上、「差別」ではない。環境や能力が生じさせる「不平等」である。

米国の入国については、国の安全を守るためという理屈はあるだろうが、機会が無い以上は「差別」と考えられるので、それは反発も食らうべきだと思うのだ。

平等は理想だが、不平等は許容しうるものだし、差別は今の時代には合わない。

きちんと線引きもせずに騒ぎ立てたり煽ったりするべきじゃない。

能力なき権利者もまた社会には害なのだから、平等というきれいな看板をやたら掲げるのは本当にやめてほしい。 権利を訴えるなら、能力もしくは神を示すべきじゃないだろうか。そんなエリヤのような人がいるなら、という話だが。

 

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1件のコメント

  1. 人の事を考えたくないって恵まれた奴に都合の良い適当な罵詈ばかりの今のネットに表面化する社会を見ると、
    社会の問題を見なくて済む、想像する架空の平等言論人へのシャドーボクシングが蔓延してるように思う

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