従軍慰安婦問題に対しては、デーブ・スペクターが正論

橋下市長の従軍慰安婦をめぐる発言が様々な議論を巻き起こし、今もなお沈静化されていないことは非常に興味深い問題だ。安倍首相が靖国を参拝に行ったことなどはあっという間に議論にもなっていないからである。それだけ、橋下氏に対するマスメディアの鬱憤、人々の注目、そうしたものが集中しているのだろう。

その橋下氏が発言の内容について方向転換をしたキッカケといわれているのが友人であるデーブ・スペクターの言だと言われている(友人だったことにも正直驚いたが)。

「彼には『日本語の“フーゾク”という表現は英語にはない。性風俗となるとセックス・インダストリーになり、かなり違法性の高いニュアンスになる。米国側にかなり悪く誤解されて伝わる』と忠告しました。
日本のフーゾクにはノーパンしゃぶしゃぶとか覗き系とか、イメクラとかキャバクラとか幅広い種類があるが、女の子が横についてお酌する水商売さえないアメリカでは、フーゾクはそのものズバリ『売春』と訳されてしまう。人身売買やヘロイン中毒など、ものすごく薄暗いイメージがあるから、そんなのに行きなさいといわれても論外だと、橋下氏にはそう伝えました」

英語になると誤解される。

橋下氏が陳謝後も何度も繰り返したのがこの誤解という表現。
しかし、誤解も理解もその根本にあるのは互いの考え方である。

そもそもキリスト教的な考えにおいては、肉欲に自分を支配されてはならない。
戦争という狂気の中においても、その大前提は変わらないのである。

ゴーマニズム宣言の小林よりのりは、こう語っている。

江戸時代には性のタブーはなかったとまで言われ、日本人にとって男女の営みは素朴な楽しみだった。
その文化が現代まで引き継がれているから、日本には「幅広い種類」の「フーゾク」が成立しているのである。
売春が違法化されているならば、「本番行為」はないけれども射精に至らせる、ピンサロとかヘルスとかいう「グレーゾーン」のフーゾクをつくってしまう。これも、素朴に性を楽しむ感覚のある日本人ならではの発想である。

世界的に見れば売春が合法の国か違法の国かのどちらかしかなく、売春を違法としておきながら、売春との境界線があいまいな「グレーゾーン」の「フーゾク」なんてものを成立させ、繁盛させている国は、日本ぐらいなのである。
橋下は「合法的な風俗」を活用してほしいと言っていたので、売春ではなく「グレーゾーン」の方を推奨していたのだろうが、これは米国人には決して理解のできない発言だった。

しかも欧米のキリスト教文化においては、性行為は「嫌悪と恐怖」の対象なのだ。これはもう日本文化の感覚とは180度逆である。
一般的に映画やポップカルチャーにおける欧米の性意識は、かなり解放されているように見えるかもしれない。映画では男女が貪るようにセックスに突入するシーンが描かれるし、マドンナもレディーガガも、グラマラスな肉体を誇示して、ダンサー相手にエロ過ぎるセックスアピールをする。
だがそれはメインカルチャーとしてのキリスト教文化に対する、カウンターカルチャーとしての表現であり、性行為に対する罪悪感は欧米人の意識の根底に浸透している。

日本人とアメリカ人の性風俗に関する認識には大きな差があるのだ。
認識の差は大きくは埋められない。
こうした問題は、真実や正解があるのではなく、信念と信仰の問題だからだ。
そこにあるのは理解だけである。

理解というのは、一言で言うと、寛容と拒絶である。
「あなたが自分で、自分の土地で、好きにするのは構わない。」
「私が自分で、自分の土地で、そのようにするのはノーだ。」

それが理解である。
その上で、付き合えるなら付き合えばいいし、付き合えなければ放置である。
付き合えなければ侵略というのなら、それは理解でも誤解でもない。

デーブの正論は、両国の性風俗を理解した上で、謝罪の根拠を誤解を招く点に求めた点にある。
これに橋下市長も納得して(というかその後の展開上)、最終的に発言を撤回するまでにいたった。

しかし、これは橋下市長に限った話ではない。
私たちはアメリカの、もっと言えばキリスト教圏のそうした性意識をどれだけ知っていたかということである。
一方的な認識で話し、人権を痛めつけてしまったという点を非難はするものの、私たちがそうしたアメリカ的、キリスト教的性意識に対して理解は示せているだろうか。様々な風俗産業が認められる節のある日本だが、そうした日本式風俗のシステムが徐々に諸外国に輸出されていっている。そうしたものを止める話はどこにもない。キリスト教国にとっては一つの文化の蹂躙であると思うのだがどうだろうか。

今回の一連の発言は、従軍慰安婦、そして過去の日本の歴史観について、一石を投じる機会となった。この機会に日本の過去を考えながら、日本はどこに向かうべきなのか、一人一人が考えるべきなのだろうが、多くの人は学者やメディアに考えることを任せて眠ってしまっている。
若者たちは国際社会という言葉に憧れと恐れを抱きながら日々語学の勉強に明け暮れている。年寄りたちは右と左に分かれて体験した歴史の正当性をひたすら主張する。客観的で絶対的な資料が無いのなら、せめて考えることくらいはしなければならない。

そして、思想が相容れようとも、理解を示さなければならない。

「私はこう思う。あなたはこう思う。それでいいじゃないか。」

誰も強制はできない。それが自由である。そして人権である。
教科書は公正に載せるべきだろうし、メディアも公正であるべきだろう。
そして、国としての意見など、誰にも求めるべきではない。
デーブの正論は、両方の立場を理解しようというそのことに尽きるのである。

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