神<悪魔<人間の序列を作る少年ジャンプ

ジョジョの奇妙な名言集 part1〜3 <ヴィジュアル版> (ジョジョの奇妙な名言集)
荒木 飛呂彦
集英社 (2012-04-17)
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人間賛歌は神・悪魔への対抗軸

ジョジョの奇妙な冒険が私は好きだ。

ジョジョの物語の哲学的なテーマに「人間賛歌」というものがあることを作者の荒木氏も度々口にしている。その人間賛歌の物語が時には悲しく、時には熱く、美しく私たちの心を騒がせる。「震えるぞハート!燃え尽きるほどヒート!」という独特の言い回しも慣れてくると心地良いものとなって現在は多くの人に受け入れられている。

しかし、一方で宗教・哲学クラスタから考えると思うのだ。人間賛歌の一方で、その対立軸は神であり悪魔であると。

DIOに代表される「圧倒的な」「絶対的な」悪がいるにも関わらず、どうして名前はDIOなのか。DIOはイタリア語では「神」を意味する言葉だ。絶対的な悪を抱えた存在に神の名をつけるあたりにアイロニーというか、人間vs神、悪魔の構図を見て取るような気がする。

思えば二部に出てくるカーズやワムウ、エシディシといった「柱の男」たちは、彼らが気に入った存在を保護しさえするならば崇拝を得、神になれる存在者である。実際、シャーマニズム的な信仰の対象になりそうなフォルムと能力を持っている。しかし彼ら(特にカーズ)もまた、「絶対的な」悪である。そして、第六部のブッチ神父も神を信じ仕える立場でありながら、DIOの悪に共感し影響され、神の代弁者としての位置を完全に失っていく。

そのように、常に絶対的な悪には神がちらついている。そして、そのような絶対的な悪が現れようと、この世界で神は一切助け舟を出すことは無い。人間が自力で運命に抗い、勝利する姿が何度も何度も描かれ、それによって私たち人間にカタルシスが訪れる。「ああ、勝利は、正義は私たち人間にあるッ!」と。人間が戦う相手は悪魔であり、同時に神だ。人間vs神・悪魔の対立軸が何となく定められている。

語る悪と沈黙する神

ジョジョにおいて、魅力的な悪役たちには哲学がある。並々ならぬ執念と哲学、そして実力が彼らをカリスマに仕立て上げる。「『ブッ殺す』と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだ」と言ったプロシュートの行いは見るものに驚きと旋律を与えたし、DIOは「おれは『恐怖』を克服することが『生きる』ことだと思う」と最強の悪役は恐怖があることと生きることへの渇望を口にした。

ジャンプにおける冒険ファンタジーの金字塔である、「DRAGON QUEST ダイの大冒険」でも、大魔王バーンは魔界に太陽をもたらすことが目的である。そのためなら手段を選ばない。そして楽しむことを忘れない。そのスケールの大きさは後の大魔道士ポップをもってして「スケールが違う」と言わしめるほどである。

それに大して神はいかに力も哲学も無い事だろうか。神が神として、誰もが心打たれて納得してシンパになるような、そんな言葉をどの世界でも語れないのである。ジョジョにおいては神はノータッチであり、ドラゴンボールでは地球の危機に登場するもあっさりマジュニアにやられ、ダイの大冒険ではマザードラゴンに全ての神性を持っていかれてしまった。神は修行の相手だが、その力を持って問題の解決には働きかけない、弱い存在として貶められている。

神には力も哲学もない。ニーチェじゃなくても「神は死んだ」と言いたくなる。もはやONEPIECEになると、神はまったく姿も現さず、超人たちは神々の実ではなく悪魔の実から能力を取得する。幽遊白書においては霊界にも魔界にも顔を出すにも関わらず、神らしい神は存在せず、怪しい宗教団体がちょっとだけ登場するだけである。

神<悪魔<人間。もはやこれが日本のマンガのテンプレートとなった。そして、日本のエンタメ分野におけるテンプレートになった。日本では女神転生のようなゲームは出てきてもポピュラスのようなゲームは登場しない。神になどなりたくもないのだ。

神<悪魔<人間の系譜

こうした流れはきっと日本的な宗教観に合わせて世界観を作ってきたからだろうと思うのだが、デビルマンや悪魔くんや鬼太郎の時代からずっと残っている。手塚作品くらいからも残っているのかもしれない。力は神から来るのではない。悪魔からもらうものだ。それを人間の持つ精神力と正義の心で正しく治めるのだ。神や天使たちは人間を保護せずに自分たちの秩序を押し付ける。そういわんばかりだ。

ゴッドサイダーという作品がジョジョが始まった時期にあったが、主人公の霊気は神と悪魔の間に生まれた子としての位置づけがあるが、この作品においても神の側(ゴッドサイダー)の多くは悪魔の側(デビルサイダー)に対して無力であり、万民が納得するような名台詞もほとんど無い。「BASTARD!! -暗黒の破壊神」においては天使は自らに仇なすものを徹底的に破壊する敵であり、人間の都合など意にも介さない。聖闘士星矢においては、神はアテナを全然守ってくれない。アテナがあってポセイドンやハデスがあるならゼウスでも何でも出てきて守るべきじゃないのか(天界編はこの際考えないことにする)。しかし神は黙する。

こうした思想的な系譜、テンプレートがしっかりと機能していることを私たちは多くの作品から知ることができる。少年ジャンプにおいてそれが顕著に見られることは間違いない。少年マガジンや少年サンデーも例外では無いのだが、影響力を考えるならやはり少年ジャンプにその原型らしきものを私は感じる。

ああ、神様もつらいよね

こうした背景にはやはり、言論統制、思想統制が少なからず働くのだろう。

「20世紀少年」中の「ともだち」が描かれるのは良くても、「聖☆おにいさん」のようなイエスとブッダが描かれるのは良くても、真実に神らしき神が、仏らしき仏が、その理想を口にし、人々の心を動かし、実力を見せ付ける、そういうストーリーでは通せない何かがあるのだろう。国が許さないのかもしれないし、宗教団体がそうした表現を許さないのかもしれない。

結局、人間賛歌が一番安全だ。そして一番人気だ。だからそれを描くことになって行くのだろう。神様もつらいよね。

しかし、私は思うのだ。

神が神であることができる世界が正常ではないかと。悪魔は悪魔と扱われる世界が正常ではないかと。そうでなければ、彼らは神でもなく悪魔でもない。

大魔王バーンよりもスケールが大きく、魔人ブウよりも強く、DIOよりも血の通った存在者、どんな主人公よりもずっと正しく、ずっと愛と慈悲に溢れている、そんな神の姿を、もっと私は見てみたい。

「頑張れ、神様!」

そのように思うこの心自体、もはや人間上位のテンプレなのかもしれない。

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