【書評】聖書を語る-宗教は震災後の日本を救えるか

聖書を語る―宗教は震災後の日本を救えるか
佐藤 優 中村 うさぎ
文藝春秋
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今日は先日読んだ本の書評を書き残しておく。というのは、いろんな意味で衝撃を受けたからだ。

まず、語っている二人。この二人、クリスチャンだったのかということ。

佐藤優は神学的な記事や著作が多いそうだが、全然知らなかった。それよりも論客としてのイメージがずっと強いし、中村うさぎに至っては普通考えられているクリスチャンの生き方とはかけ離れている。かなりトリッキーな解釈でキリスト教の影響を受けつつその本質を捉えていると佐藤氏は評しているが、そんなことは無い。

そして内容。中村うさぎの「神様を信じていた。私が思う神様だけど」の言葉がその本質を表している気がする。全編に通して、二人の宗教観は聖書という同一の題材を用い、キリスト教の神を使っているが「私の思う神様」だ。信仰が無いのではなく、仕えている神が違うのではないかと思うのである。

視点が何かおかしいから、時事や他宗教、文学作品などの理解にも何ともいえない違和感が残る。まじめなイスラム教徒は怒るだろるし、村上春樹ファンは怒るだろう。しかし、社会情勢についての知識と理解を週刊誌レベルで求める人は違和感を感じることもなくそれを受け入れそうだ。歯に衣着せずに言葉を発し、政府を批判し、欲やエロという言葉が飛び交うその姿は彼らの日常会話と大きな違いは無く、奇妙な連帯感を伴って受け入れられるからだ。

だから、その雰囲気にやられる。こういう間違った雰囲気を発して世間に同調し、暗黙のうちに自分の主義主張を浸透させる危険な人物が神学出身の論客や活動家には実は多い。中には大学のトップになってしまった人もいる。

神学を学問とし、信仰と離れたところで利用しているうちに信仰的なキリスト教観が失われてしまっている。仏教でもこういう活動家は多い。なぜオウムが人を惹きつけたのか?簡単だ。彼らが「本気」で「本格的」だったからだ。信仰も信念も救済観もない宗教は、「本気」の宗教の雰囲気には勝てない。今、熱心にヨガをしている多くの人たちは、オウムの時の信者たちのような力は絶対に出ない。

オウムがいいという話ではない。宗教に関わる者が「本気」で宗教をしなくなったら、「本気」の他のものに奪われるという話である。本当に良いものをしているのなら、本気でやらなければならないが、それができなくなってきているのである。

佐藤優や中村うさぎがキリスト教をあたかも解説するかのように見えるこれらの本は、野球ファンの素人が野球解説をするようなものだ。本気で生きた人が本気で解説しなければ、こういう知識人が適当に自分の考えを語るものに世間が毒されていく。そういう意味では池上彰も無責任な解説が多い(これは企画提案の内容が問題なのだろうが)。

ということで、宗教は震災後の日本を救えるかというテーマの議論も、「救う」の定義が明確に示されているわけではないので何とも言いがたい。繋がること、全体主義、これらはあくまで人間が人間自体で励ましあうための救いであり、宗教の扱う「救い」とは根本的に異なっている。様々に迷彩が施されながら、結局のところは二人が普段主張していることを繰り返しただけのような感じがしてならない。

ただ、二人が知識人であり、類稀なる人生を生きてきた思想家だということがわかったことが、今回の収穫だ。健康上に問題が無ければ、おそらく10年、20年後も論壇に残っていることだろう。

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