宗教・ヤクザというノンフィクションファンタジー

日本人は宗教とヤクザが大好きだ。

こんなことを言うと問題がありそうだが、事実そうだと思うしかないほどに、この二大組織について日本人はいつも関心を持っている。

週刊誌などでは「ネタが無い時は宗教かヤクザ」と言われるくらいの鉄板だ。

どうして、これほどまでにも興味をかきたてるのか。

それは、よく言われるような保身的な意味合いなどでは決してないと個人的には思っている。もっと肯定的な感情が彼らに対してあると感じるのだ。

今日は、それについて思うところを少し整理して記録しようと思う。

「和」を乱し「和」に貢献した宗教とヤクザ

「和をもって尊しと成す」と言ったのはかの聖徳太子だ。十七条の憲法の一番最初にはそのように書かれていて、その次が「三宝(仏、法、僧)を尊ぶべし」である。

この順番に見られるように、日本においては昔から宗教よりも社会的な「和」が尊ばれてきていて、それは今でもなお日本人の根本的思想になっていると考えられる。

現在の日本国憲法においても、信教の自由は認められているが、あまり評判の良くない団体に属していれば家族親戚からやめるように言われるし、ヤクザになりたいと進路指導で書けば職員室に呼び出され、職業選択の自由とは何だったのかと思うことだろう。

これら二つの組織は、よく「公序良俗に反する行為を行う団体」、「反社会的組織」という括りで様々な活動を規制されることがある。

他者の自由を侵害するという理由で、当人の自由は侵害されることが少なくない。

つまり、この両者は「和」を乱すのだ。実際、そうした理由に相当するような事件も数多く起こっていることは間違いない。

「和」とは、できあがったシステムに対する従属意識であり、国家や組織を己とみなすことによってその発展に寄与することを求める思想だと言っていい。ただの仲良しではなく、己(国家や組織)を利して栄えさせるのが和なのである。

しかし、「和」を乱しただけであれば「和」の力によって滅ぼせば良い。それは昔から征夷などという言葉をもって一方的に他集団を攻め立てて国を統一した日本人の得意技であるはずだ。しかし、そうなっていないのは「和」を乱しただけでなく、「和」に貢献する側面があるからである。

聖徳太子が「三宝を尊ぶべし」と言ったように、仏の教えは大事にされた。整理された世界観と道徳観は、人々に思想的ショックを与え、秩序ある社会形成に役立った。つまり、「和」を成すための重要な要素となったのである。

ヤクザも、その成立過程を見てみれば地域や店を守る浪人たちがその始まりだ。官憲の機動力も情報伝達力も不十分な時代、事が起これば遠くの警察より、近くの用心棒の方がずっと頼りになる。小さな揉め事を片付け、秩序を乱す輩を締め出す、それが彼らの仕事であり、「和」への貢献が行われていた。

ぜひ理解して欲しいのは、日本人がこの両者を好むのは、そうした「和」に貢献してきた部分や精神性を好いているのである。社会に迷惑をかけていることを好いているわけではない。

宗教の「信仰」とヤクザの「仁義」

宗教における信仰と、ヤクザにおける仁義は似ている部分がある。

それは「絶対的価値観」であるということだ。

どんなに立派な家訓や社是があっても、それが絶対的価値観になることはない。それどころか、世界に誇るといわれる日本国憲法ですら我々を縛ることはない。

しかし、信仰と仁義はそんな人々を縛り、束ねる力がある。それが外にいる人には奇異に見える。しかし、それでいて憧れに似た感情があることを否めない。

日本人は忠義の民族である。見えない八百万の神に仕え、天皇に仕え、将軍に仕えてきた民族で、儒教的な教えが浸透したこともあって忠義をもっと仕えることは善とされ続けた。死しても不幸を被っても、なお忠義を貫く英雄たちの話を我々は数多く聞いている。

しかし、現代は何かに仕えるという時代ではない。平等の時代である。人々は仕える先を失い、そうした英雄たちとの乖離に悶々とする。ひたすら自由で平等という英雄活劇は日本には存在しない。長い歴史の文脈の中で、日本人はひたすら仕えることを願う民族になっているのである。

そのギャップがあるからこそ、明確に仕える対象のある彼らがうらやましくもある。時にはそのために命をかけるほどにそれに価値を置くことができる。あらゆるものが損得で考えられるこの時代に、損得勘定を抜きにして立ち回る人々がうらやましい。そういう絶対的価値観が欲しいと願っている。

ただし「和」は乱さないのが理想だ。

しかしそれも矛盾をはらんでいて、そうした英雄活劇の多くはその時代の「和」を乱していることが多いのである。人が和を乱すことには拍手喝采し、自分が和を乱すのは敬遠する、そういうひねくれた精神性があるのかもしれない。

宗教・ヤクザはノンフィクションファンタジー

組織というものは独自の文化を当然持っているものだが、だからと言って個性的と言えるだけの違いを発見することは難しい。個性的であるということは、それだけ人を受け入れ組織を拡張するための柔軟性に乏しいとも言えるからだ。

宗教もヤクザも、独特の習慣や行事がある。そういうものは企業でも持っているのだが、この両者は芸術まで持っている。経済活動もしている。秩序ある組織体系があり、また勢力を拡大していこうという目的もある。そして組織内で適用されるルールがきちんと整備されている。もはや、ひとつの国と言ってもいいだけの諸機能を備えている。持っていないのは通貨と言語くらいだ。

少し話題が飛ぶが、ファンタジーというのは、現実から乖離しすぎると面白みがない。現実と違う設定はひとつふたつあればいいと言われている。そのひとつふたつが違った時に、人間はどのように反応し、どのように生きるのか、それを見るのが醍醐味だというのだ。

だからファンタジーにおいて、異世界に行くのは人間だし、タイムスリップするのは人間だ。もしくは人間外の生命体が人間の社会に送り込まれる。バックトゥザフューチャーからドラえもん、ドラゴンボールにハリーポッターまでみんなそうだ。

ヤクザも宗教も、現実に存在しながらも我々の目にはファンタジーに見える。多くの諸条件は同じだが、設定がまるで架空の国のように違うのである。だからこそ、そこで起こる悲喜こもごものストーリーや人間性は際立って興味深く感じられるのである。

ノンフィクションでファンタジー。これが魅力の根源にあるように思えてならない。

ノンフィクションファンタジーとの接し方

ノンフィクションは触れることのできる現実であり、ファンタジーは現実では起こりえない何かである。この矛盾した要素を抱えた今の宗教とヤクザは、間違いなく現実世界では「和」を乱すものとなる。

どんなに社会への歩み寄りを見せようと、本質がそうなのだから摩擦は避けられない。

だから接し方としては、ノンフィクションが触れてこられない位置でファンタジーを楽しむか、ノンフィクションに触れつつファンタジー内で生きのびるかである。

ファンタジーの世界では、主人公はその世界に適応しながら問題を解決し、元の世界に戻る(もしくはその世界で成功して生き続ける)というのが王道である。ひとたびファンタジーに触れてしまえば、その和の中で生きるしかなく、そこで和を乱すならファンタジー世界の論理によって粛清されるようになるだろう。

多くの人はファンタジーの中で生きられないので、距離を取るしかない。

しかしある種の人々は、むしろそのファンタジーに身を乗り出す。現実世界への鬱屈とした思いが、新しい世界と秩序を求めさせる契機となることは少なくないのだ。

 

こうした理由で、最も身近なファンタジーとしての宗教とヤクザは、まるで旅行や留学のようにいつまでも日本人に好かれるしかないのではないかと思うのである。

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