長崎の教会群が世界遺産になれない原因はキリスト教への理解不足

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こんな記事を昨日見かけて、真剣に考えたくなった。

まず簡単に事の顛末を整理すると、

2007年の暫定登録リスト入り以来、政府と長崎県は世界遺産への登録のために活動を続けてきた。ユネスコの世界遺産委員会に認定を受けるためには、国際記念物遺跡会議(イコモス)というNGOからの推薦が大きな意味を持つのだが、長崎の教会群はこのイコモスからはねつけられた。その理由は教会群の構成資産の価値が十分に説明されていないとするものだった。今年7月の登録が難しいと判断されたこともあり、政府は推薦を取り下げることにしたのだが、長崎県としては下駄を外されたような形となって困ったことになっている、というあらすじになっている。

そして、今回考えたいのは、イコモスがそのように判断した理由である。

上記の記事の中では、

 そもそも世界遺産とは何なのか―ということが、今回の事態の本質であろう。イコモスも教会群の価値自体は認めている。しかし、構成資産の内容と推薦書のコンセプトに整合性がみられないと指摘しているのだ。現在の構成資産をそのまま残すとすれば、コンセプトそのものを作り直さなければならないし、あくまでコンセプトにこだわるなら構成資産の除外と見直しは避けられない。イコモスが禁教期を重視するのは、ヨーロッパにおいても消滅したと信じられていた日本のキリスト教信者が約350年にわたって信仰を守り続けてきたことが奇跡とされているからだろう。徳川幕府から弾圧されてきた潜伏キリシタンがキリスト教に関係する建造物を残せなかったのは当然で、明治以降の教会は信仰の自由を得た信者の喜びであり、禁教期の間接的証明になるという地元マスコミの論調は理解できるが、それでイコモスを納得させることができなかったという現実は受け入れるべきだ。

としている。記事の言外には「世界遺産としての価値よりもその構成資産を使用することに意味を持たせてるのではないか」という雰囲気が漂っている。

まず、世界遺産であるが、UNESCOによれば、

 世界遺産とは、地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から引き継がれた貴重なたからものです。世界遺産にはさまざまな国や地域に住む人びとが誇る文化財や自然環境などがあります。
なかには人類の残酷な歴史を刻むもの、また戦争や自然災害、環境汚染などにより危機にさらされているものも含まれています。それらは国際協力を通じた保護のもと、国境を越え今日に生きる世界のすべての人びとが共有し、次の世代に受け継いでいくべきものです。

 

 

というように定義されており、

  • 文化遺産(顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など)
  • 自然遺産(顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域)
  • 複合遺産(文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産)

の三種類がある。

長崎の教会群の場合は当然文化遺産ということになるのだが、その構成資産は次の通りだ。

  1. 大浦天主堂と関連施設
  2. 出津教会堂と関連施設
  3. 大野教会堂
  4. 日野江城跡
  5. 原城跡
  6. 黒島天主堂
  7. 田平天主堂
  8. 平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)、平戸の聖地と集落(中江ノ島)
  9. 野崎島の野首・舟森集落跡
  10. 頭ヶ島天主堂
  11. 旧五輪教会堂
  12. 江上天主堂

これらの詳細については長崎県の世界遺産登録に向けたサイトが詳しい。

さて、上記イコモスはこの構成資産の価値が十分に説明されていないとするものだが、政府と長崎県が描いたストーリーとしては、これらが示す普遍的価値というのは「450年に及ぶ日本と西洋の価値観の交流の中で生じた日本における『キリスト教の伝播と浸透のプロセス』を示している」であると言う。

ふむふむ、それはイコモスがどう考えても正しい。日本におけるキリスト教の伝播と浸透のプロセスというものは日本側の解釈で、美辞麗句と受け取られかねない。

長崎で行われたのは過酷な弾圧と迫害であり、キリスト教的価値観としてはそのような極限状態の中で信仰が保たれていたということが奇跡であり価値がある。250年にもわたって潜伏しながら信仰を守ったことが素晴らしいのであり、その後どのように教会が作られ発展したかは実はそれほど重要ではない。

世界遺産登録を狙うのであれば、もっと普遍的なキリスト教的信仰観に従順すべきだ。ゴルゴダの丘やビア・ドロローサに訪れる人がどうして多いのだろうか。そこでイエスが華やかな復活を遂げたからではない。そこに主の苦難と心情があるからだ。長崎の教会群に普遍的な価値を求めるなら、そうしたキリスト教的精神にもっと立脚する必要があるだろう。

日本は苦難の事実や歴史に目を背ける傾向がある。だから戦争責任の問題についてもなかなか解決しないのだ。くさいものにはフタをして水に流す、そういう習性がこういった場面で現れ、国際化だグローバル化だと言いながらも感性がおかしい部分がある。

構成資産に価値がないのではなく、見直しが必要なのだが、その見直しによって構成資産が減ってしまうと長崎県としては痛手になる。しかし、そんなことを言っている時点で世界遺産の意味も宗教的な理解も何もない。経済対策、地域興しが世界遺産の意味だろうか。経済の都合を入れてしまうからややこしくなる。

長崎の教会群が世界遺産になれない原因は、キリスト教への理解不足にあると言って間違いないと私は思っている。政府が悪いのか県が悪いのかわからないが、このまま登録されないままというのは、日本のクリスチャンたちが行った偉業が世に知られずに埋没しかねないので、きちんと遺産として残るように頑張ってほしい。

 

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