武士を見たことのない時代の「武士道」を考える

武士道 (岩波文庫 青118-1)
新渡戸 稲造
岩波書店
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「武士道」という言葉がある。

新渡戸稲造が日本人の道徳意識の根源として世界に紹介したと言われているが、明確な概念のある言葉ではない。ただ、日本においては妙な憧れと共に説得力を持った言葉として、この武士道精神が教育理念になっていることは間違いない。

その結果、現代において様々な問題が生じている。

実際の武士を見たことがない人々の「武士道」精神が、今日の様々な問題の理解をゆがめているように思えるのである。

舛添元東京都知事のリコール

舛添氏が公金を私用したと言われる問題だが、最終的には誤解は招くものだが問題はないという結論となったはずである。しかし、そもそも誤解を招くようなことすらするな、というのが多くの大衆の意見として、結局リコールにまで発展した。

舛添氏になってから東京都が動いた部分を考えるなら、微々たる出費でしかないのだが、それがここまで人々を憤慨させるのはやはり「武士道に反する」と考えるからである。

武士というのは「正しく、潔く、忠誠を尽くすもの」と思われている。
都民の信任によって職務を与えられている都知事だからこそ、そういった武士道を遵守するべきものというのがどこか根底にあるのだろう。

ちょっと歴史の勉強をしたことがある人であれば、武士が必ずしもそんな聖人ではなく、権謀術数を持って自らの立場を維持し、利を掠め、一方で与えられた所領を治めていたということはわかるはずなのだが、武士道と歴史の理解が歪んでいるためにそうは思わないのである。

また、武士の責任の取り方は大きく二種類だ。

「首を切る」または「小指を切る」である。

「首切り」という言葉は今でも使われるが、さすがに死ぬことは無い。しかし、職を失うということになった。昔は武士は家柄だったから、能力の有無によらず一生武士であり、武士で無くなるためには死ぬしかなかった。首切りが過去と現在で持つ意味は「解雇」である。

「小指を切る」のはヤクザの流儀だと思っている人が多いが、ヤクザの元は身を持ち崩した侍たちである。「身を持ち崩した」とは、何かの理由によって家柄や立場が自分を守ってくれなくなった状態で、その時に自分を守ってくれるのは侍としての「腕っ節」しかないのだが、小指を切るとしっかり刀が握れない。力が入らない。そのため、「小指を切る」は実質「侍としての機能を失うこと」である。

侍には責任を取る方法は他にない。
賠償は政治家や貴族、承認のすることである。

公人は武士道を持つべしという暗黙の圧力のある日本では、給料を全カットしようが返金しようが、責任を取る手段は他には無いのである。

在日米兵の問題

武士たちの基本機能は「農民たちの租税によって生計を立てられる代わりに、土地や領土を守る」ことである。

それを可能にするために、武士たちは武芸の稽古と共に、歴史や儒学などの学問をすることが求められていた。人々は単純に強いだけでなく、知識を持って人々の暮らしを良くするための政策を行った為政者に感心した。

だからであろう。
無意識に国を守る者たちはそうであるという認識がある。

しかしながら、自衛隊には大学卒は警察のようには多くない。
残念ながら、アメリカの軍人たちは、そういった教育された人間はより少ない。
武力とモラルにあふれた助っ人ではない。
戦闘力は高く、モラルはそれほど高くない、そういった人も多いのである。
もちろん全ての軍人がそうではないが、抑止力が働くほどの人数差でもない。
実際、事件は多発し、その中には空いた口がふさがらないものも多い。
マスコミに公に騒がれるもの以外にも、泥酔した米兵が見ず知らずの一般人の家に家宅侵入を起すというようなことは頻繁に起こっている。

だから沖縄人たちは許容できないのである。

そして他の地域の人々は移設にみんな反対するのである。

政治家の皆様だけが友好なパートナーシップを強調するが、残念ながら日本人の守備意識と合わないのである。

サムライ精神の教育を受けた軍人と、米兵とでは価値観が全く違うのである。

排他的宗教観

日本において、この数年、イスラム教へのイメージはかなり悪くなっている。
アンケート調査ではイスラム教に対して「嫌い」と答えている人の割合は増えているそうで、一方で靖国参拝に対しては肯定的な意見が増えているそうだ。

武士道の精神は、特定の宗教に依存しない精神である。
特に、権力者が特定の宗教に依存していると、そこから問題が生じることがあり、それを日本国民は極端に嫌う。

今、たまたまイスラム教が槍玉に上がっているだけで、統一教がトラブルを起している頃はキリスト教のイメージダウンが激しかった。

武士道精神は、残念ながらそういった人心を集めるものに対しては注意深く反応する精神である。これは歴史的に見ると明らかである。キリシタン大名や仏教界と仲良くした武士たちも多くいたが、愛されはしても成功はしたと言い難い。より強い「武士たちからの圧力」が絶えずかけられたからである。

士農工商という身分制度は儒教的な思想であるが、これ自体がすでに身分差別を前提にしているものであり、自由や平等などとは遠くかけ離れたグローバルになりえない考え方なのである。

そういった思想の影響を受けざるを得ない日本人たちは、やはりグローバル化に対して島国根性を掲げて今日もあれこれ宗教批判を繰り返している。

武士道の再定義が必要

元巨人の桑田真澄氏が、現役を引退した後に「野球道」という言葉の再定義について考えたというが、この「武士道」についても再定義が必要であろう。

野球道の再定義というのは、明治時代から「野球道」に基づいた野球教育が国内の野球の現場では行われていたが、これは軍国時代の富国強兵時に強い軍人を育てるための精神教育として用いられた面があり、現代的ではないというものだ。

現代的ではないというのは、暴力や非効率で心身に強い負担を強いるような練習、また指導者への絶対的服従というような面があるということである。桑田氏の提唱としては

●練習量の重視→練習の質の重視
●絶対服従→尊重
●精神の鍛錬→心の調和

というような形に再定義しようという結びになっている。

今、もう一度「武士道」を読んでみて、現代における武士とは何かを考え、それに沿った教育や道徳理念を立てる必要があると言えるだろう。

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